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名古屋地方裁判所 昭和48年(ワ)2145号 判決

原告 株式会社三晃社

右代表者代表取締役 松波金彌

右訴訟代理人弁護士 本山亨

同 那須国宏

同 近藤堯夫

被告 加藤紘一

右訴訟代理人弁護士 早川登

同 桑原太枝子

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の申立

一、原告(請求の趣旨)

(一)  被告は原告に対し金三二四、〇〇〇円及びこれに対する昭和四八年九月一六日以降右完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

(二)  訴訟費用は被告の負担とする。

(三)  仮執行の宣言

二、被告

主文と同旨

第二請求の原因

一、原告は、新聞広告、一般広告代理業、出版、印刷、看板の製作等の業務を営むことを目的として設立された株式会社で、いわゆる広告代理店であるが、その本店を名古屋市に置き、その他全国に五ヶ所の支社、営業所を有している。

二、原告は、その従業員に対し、入社に当り就業規則等会社諸規則を交付し、その内容を周知徹底させるとともに、規則改定の際にはその改定を周知徹底させている。

原告就業規則によれば、その第五四条で、勤続三年以上の社員が退職したときは別に定めるところにより退職金を支給すると規定し、右に基づき規定された退職金規則によれば、第三条に、退職金は退職発令後本人より請求があったときから七日以内に支払う旨規定し、同規則別紙退職事由別支給乗率表によると、退職後同業他社へ転職のときは自己都合退職の二分の一の乗率にて退職金が計算されることになっている。

同業他社とは、(1)広告代理店、(2)広告のデザイン、コピー、写真、製版、写真植字、印刷、録音、フイルムの製作を行う業者、(3)広告の企画、調査を行う業者を指す。

三、被告は、昭和三八年四月一日に原告会社に入社し、同四八年七月二〇日退職し、右同日原告より退職発令がなされた。被告は右同日前記規則による退職金の支給を請求した。その際被告は原告に対し転職先は未定である旨答えた。その後同年八月二日被告は原告より自己都合退職乗率に基づき計算された退職金六四八、〇〇〇円を受領し、その際今後同業他社に就職した場合には前記退職金規則の規定するところに従い右受領した退職金の半額金三二四、〇〇〇円を原告に返還する旨約した。

四、しかるに同年八月六日に至り、原告は、被告が既に同業他社たる株式会社第一広告に就職していることを知った。

五、そうすると、被告は前記退職金規則並びに原被告間の約定により明らかなごとく金三二四、〇〇〇円は本来受領できないものであったのにこれを受領したものであるから、右金員について被告は法律上の原因なくして原告の財産により利益を得、原告に右同額の損失を及ぼしているので、被告は右金員を不当利得としてこれを原告に返還すべき義務がある。

六、よって、右金三二四、〇〇〇円及びこれに対する支払命令送達の日の翌日である昭和四八年九月一六日以降右完済に至るまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

第三請求の原因に対する認否

一、請求の原因一項の事実は認める。

二、同二項の事実については、入社当時原告のいう規則等の交付はなく、周知徹底の事実もなく、原告主張の規定は一方的なもので労働組合も承認していないものである。

三、同三項の事実中被告の入社年月日の点を除きその余の事実は認める。しかし、原告主張のような約定をしたのは、右約定をしなければ退職金を支払わぬというので、やむなく約定したものである。

四、同四・五・六項の事実並びに主張を争う。

第四被告の主張

一、被告は原告との間に競業避止契約を結んだことはないし、被告は単なる労働者であって法定の競業避止義務を負うものではない。このような単なる労働者に対し、就業規則等で退職金を返還させることを約させることにより、その営業の自由、職業選択の自由を前もって束縛することは公序良俗に反し無効である。

なお、就業規則等により競業避止契約がなされたとするならば、右契約は慎重に解釈さるべきである。被用者が離職後一定の営業を営まない、一定の営業に就職しないという契約、しかも期間の制限のない競業避止義務を課した契約は民法九〇条に反し無効である。右契約と結びついた本件退職金給付は不法原因給付にあたるから、原告はこれが返還を求めることはできない。

二、退職金規定で同業他社へ就職したときは、退職金の半額を支給しないというのは賠償予定であり労基法一六条に反し無効である。

三、労働組合は原告会社の退職金に関する規則を認めていないから、この意味においても右規則は無効である。

四、被告と前後して原告会社を退職した従業員で同業他社に就職した訴外長坂勝寿、杉正敏、吉村某等に対しては、本件のごとき退職金半額返還の請求をしていない。これは同訴外人らが原告会社在職中に労働組合の役員をしていなかったからである。被告は在職中組合の役員をしていたため本件請求をされたものである。このことは法の下における平等の原則に反するし、不当労働行為でもある。

第五原告の反論

一、原告会社退職金規定の合理性

(一)  退職金の性格は、一般にその支給が就業規則等により明確となっている場合は、賃金の後払的性格を有するとされているが、その基底には恩恵的性格のあることを払拭することはできない。即ち、退職金は被用者が永年勤務した功労に報いようとして支給されるものであるからである。このことは、会社都合と自己都合との退職事由により退職金の支給乗率が異っていることからも明らかである。

そうとすれば、使用者と労働契約を締結していた者が退職し、前記のごとき功労金の性格を有する退職金を受領した場合、旧使用者に対し従前の労働契約の余後効ともいうべき信義則上の忠実義務を負うべきであり、その意味において、旧使用者の活動領域内において自己の計算に基づこうが、他人の計算に基づこうが職業的営利行為により競争してはならないという義務を負うというべきである。ところで、本件原告の退職金規定は、右に述べたような競業避止義務を定めたものではないが、右のような観点から退職金支給に差等を設けることは何ら問題とされるべきことではない。

(二)  わが国において広告代理店は数千も存在し、著しい乱立状態にあり、また、過当競争状態にもある。そして、広告代理店業はもともと顧客(クライアント)との人的結合の強い業界であるが、大手の広告代理店はその有する資本力と企画力とを武器として市場の獲得に当っている反面、中小の代理店(原告は中程度の規模の広告代理店である)においては、資本力を持たないため、勢い顧客との人的結合に依存するところが大である。ところが、顧客との接触は結局営業担当者にまかされることとなり、顧客と広告代理店との結合は、顧客と営業担当者との結合に変っていくのである。そこで各広告代理店は営業担当者を引き抜き、この営業担当者の接触する顧客を自己企業の顧客にしようと欲し、このため中小の広告代理店間では営業担当者の引き抜き合戦までが行われているのである。このように、営業担当者が他の競業会社に就職することは顧客が移動することと同様であり、この危険防止のために本件退職金規定が設けられているのである。

現に、被告は、退職前営業に従事しチーフの職にあったもので、従前より原告の顧客であった愛知トヨタ、中日パレス、中部トヨタリフト等を就職先たる第一広告社の顧客としているのであり、右を金員に換算すれば、月額五〇〇万円ないし六〇〇万円の取引額となるもので、原告は被告の転職により毎月右取引額相当の損失を蒙っていることになる。

(三)  原告は同業他社へ転職した退職者の営業の自由を奪うものではない。けだし、原告退職金規定は競業を行う者について競業そのものを禁止するのではなく、単に退職金の支給乗率が競業を行わない者の二分の一に過ぎないというものであるからである。

(四)  このように、本件退職金制限支給規定には一般的合理性があり、また、被告との関係でみた場合にも合理性が存する。

二、被告は、昭和四八年八月二日原告に対し同業他社へ転職した場合は受給した退職金の半額を原告に返還する旨の念書を差入れて退職金を受給しているが、その時点には、被告は既に第一広告社へ就業するための準備をなし、ほぼ同社へ入社することが確定的になっていたにも拘わらず、被告は、右のような事情を秘し家業を手伝うと言っていたのであるから、被告の行為は詐欺的なものであり、かかる事情のもとでは被告は右念書に従い受給した退職金の半額を原告に返還すべき義務がある。

三、旧被用者たる被告が競業により旧使用者たる原告の利益に反する行為をしておきながら、退職金を自己都合乗率に従い受給し、その二分の一を返還しないというのは、それ自体矛盾であり、権利の濫用といわざるをえない。

四、被告は本件退職金支給制限規定は賠償予定を定めたもので労基法一六条に違反するというが、被告は従前より原告の取引先であった顧客をその地位を利用し故意に第一広告社の顧客として月額五〇〇万円強の損害を原告に与えたものであるから、少くとも金三二四、〇〇〇円を支払う義務がある。

第六証拠≪省略≫

理由

一、原告が新聞広告、一般広告代理業、出版、印刷、看板の製作等の業務を目的とする株式会社で、いわゆる広告代理店であること、原告主張のとおり原告の本店、支社、営業所が存することについては当事者間に争いがない。

≪証拠省略≫によれば、被告が原告会社入社に際し、退職後原告会社営業種目と同一業種の他会社に服務し或いは自営するときは必ず事前に原告会社の承諾を得ることを誓約したことが認められる。

原告就業規則及び退職金規則に原告主張のとおりの規定があることについて、被告は明らかに争わないからこれを自白したものとみなす。被告は右各規則は労働組合が承認しないものであり、かつ、周知徹底がなされていなかった旨主張するが、就業規則及びこれに付随する諸規定は当該事業場内での社会規範たるにとどまらず、法的規範としての性質を認められているものと解すべきであるから、当該事業場の労働者は、就業規則等の存在及び内容を現実に知っていると否とにかかわらず、また、これに対して個別的に同意を与えたかどうかを問わず、当然に、その適用を受けるものというべきである。

右認定の各事実によれば、被告と原告会社間には、被告が退職後同業他社に就職する場合には自己都合退職金の半額が不支給となる旨の契約があったことが認められる。右契約においては、競業を禁止する旨の明示的な文言は見当らないが、退職金の半額を不支給にすることによって間接的に労働者に競業避止義務を課したものであることは否定できない。しかして、原告会社においては就業規則等により退職金の支給及び支給基準が明確になっており、退職時にその額が確定することは明らかである。そうすると、労働者たる被告が前記義務に違反した場合には退職時に退職金の半額を没収するという損害賠償の予定を約定したものと解することができる。かかる労働契約に関する賠償額予定の約定が労基法一六条に違反し無効であることは明らかであるから、前記退職金規定のうちこの点に関する規定はその合理性についての主張を検討するまでもなく、無効といわなければならない。

二、被告が原告会社に約一〇年勤続し、昭和四八年七月二〇日退職し、同年八月二日自己都合退職乗率に基づき計算された退職金六四八、〇〇〇円を受給したこと、その際今後同業他社に就職した場合は退職金規則の定めるところにより右受給した退職金の半額である金三二四、〇〇〇円を原告に返還することを約したことについては当事者間に争いがない。

≪証拠省略≫によれば、同年七月二〇日原告と同業の株式会社第一広告社より被告に対し入社の誘いがあり、同年八月九日同社に正式入社したこと、被告が原告会社退職後退職金を請求し、退職金を受領する直前に前認定のような約定をしたが、右約定をしない限り自己都合乗率による退職金の全額を受領できない状況にあったことが認められ、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

右認定の事実及び弁論の全趣旨によれば、被告は本来自己都合による退職金の半額を返還すべき義務がないのに、前記約定をしなければ退職金の全額を受領できない状況にあったので、原告に要求されるまま義務なきことを約するに至ったもので、右約定は被告の真意に出でたものでなくその真意に出でたものでないことを原告において容易に知ることを得たものであることが推認できるから、右約定はその効力を生じないものと解すべきである。なお、原告は被告の右行為を詐欺的行為であると非難するが、もともと原告が被告に義務なきことを約せしめようとしたのを、被告は退職金全額を受領するためやむなくなした行為であるから、これを非難するのは酷であるといわなければならない。

原告は権利の濫用を主張するが、被告の行為が権利の濫用にあたるとすべき事情は何ら認められない。

更に、原告は、被告がその地位を利用し原告に月額金五〇〇万円強の損害を与えているから、退職金の半額を返還するのは当然であると主張するが、この主張自体前認定の賠償額予定の契約の存在を裏書するものであり、もしも被告の不正な行為により損害を蒙っているのであるならば、その点を具体的に主張立証の上追及すべきであり、退職金の返還を求めるのは筋違いというべきである。

以上説示のように、被告は当然受領すべきものを受領し、それを保有しているのであるから不当利得の成立する余地のないことは明らかである。されば、被告には退職金の半額金三二四、〇〇〇円を返還すべき義務はない。

三、よって、原告の請求は理由がないから失当として棄却し、訴訟費用の負担について民訴法八九条を適用し主文のとおり判決する。

(裁判官 小沢博)

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